注)命の現場のありのままをお伝えしたく、実際に猪を捌いている写真を白黒加工で掲載しております。ご理解いただける方のみ、お進みください。
殺生。私達人間は常に「生きる為には、他のモノの命をもらわなければならない」存在です。そのモノが牛であれ、鶏であれ、魚であれ、お米や野菜であれです。
でもこの事実を普段日常生活では意識する事はあまりありません。
ただ、その日常が非日常になる〝時〟があります。否が応でも「殺して生かされてる」事を思い知らされる時があります。
先日、私が仕掛けた罠に、立派なオスの猪が二頭かかりました。
私は猟師です。仕掛けた罠に「獲モノ」がかかった時がそうです。一瞬で緊張が走ります。猟師なので、かかった獲モノの命を取らなければなりません。
「命を取る」これは何度やっても中々慣れないものです。覚悟して獲モノと対峙するのですが、彼らのパワーに圧倒されて、やはり毎回緊張します。
その最中は心を無にして挑みます。何も考えない様にしています。猟師だから仕方ない。仕方ない。仕方ない、と(…時にそうやって人間は間違いを犯しても来たのでしょう)。
とんさかの森に先住する猪達は田畑を荒らします。人間からしたら田畑を「荒らされた」と言われます。私も一晩で何ヶ月も管理して来た作物が全滅させられる現場を何度も見てきました。
また、実質活動している猟師の数も年々減って来ているのも実情ではないでしょうか。猟師の高齢化も相まって、猪の数はここ数年、以前に比べて増えて来ている様に感じます。
でも猪達からしたら「只々子孫を繋ぐ為に、生きる為に」田畑に入るだけです。
実は人間も猪も同じだと思うのです。どちらも子供や子孫を守る為に、日々勤労したり、日々田畑に入ってみたり。
猪の〝命〟を頂く際、猟師はそんな猪達が生きる野山と人間が暮らす街の狭間に在る〝里山〟の境界線の〝管理人〟〝調整人〟の様な役割があるのかも知れないと、自分に言い聞かせています。
現在私は、猟友会に属し〝害獣駆除〟という名目で猪を〝狩って〟います。(人間からしたら〝害獣〟ですが、自然からしたら〝自然を元の状態に戻す先遣隊〟の様にも思えます。)
狩った後は、まだ私達の地域には「食肉加工場」がないので〝焼却処分〟か〝埋立処分〟又は〝自家処分〟する他ありません。
現状、言葉が適切か分かりませんが、それらのほとんどが「生ゴミ」扱いされています。
それが良いとか悪いとかではないのですが、出来れば、〝命〟を頂いた以上、やはりその命を何らかの形で〝循環〟させたいという思いがあります。
そこで私は「自家処分」という形で、狩った猪達を自家消費用に〝肉〟にしています。
猪は、山で出会ったら、人間は到底敵わないぐらいのパワーの持ち主です。彼らを食する事は、その彼らのパワーを頂く事に等しいのかも知れません。
そして、動物を「食物」に変えるという事は〝捌く(さばく)〟という事。
狩った獲モノを軒下に吊るし、ナイフで皮を剥ぎ、部位ごとに〝肉〟にしていきます。〝肉〟にした後に残るのは皮と五臓六腑だけです。後はほとんど捨てるところはありません。
また、自分で〝捌く〟と哺乳類の体の〝仕組み〟がよく分かります。「よく出来てるなー。人間も普段目には見えないけどきっと同じ仕組みで、それら一つ一つが機能して生かされてるんだろなー」っと思いました。
私達もいつかは必ず死を受け入れなければならない日が来ます。だから今は精一杯〝生かされている〟。
死は怖い。死を恐れ、死を悲しみ、来たる死に不安を覚えながら生きている。死を迎えるまで私達人間は、罠にかかった猪達と同じぐらい、みんな不安な目をしながらも精一杯〝生きよう〟としてるんだろう。
今は健康だからこんな事冷静に言えるのかも知れないけど、だからこそ、あらゆる〝命〟に対して日々僅かながらでも〝リスペクト〟を忘れずに、生きていきたい。生にしがみつき、今在る〝命〟を全うしたい。
猟という現場で〝生〟と〝死〟に間近で向き合ってみて、毎回、やりたい放題やってる校長こと私の〝言い訳〟屁〝理屈〟みたいなものを改めて思い知らされています。
また今回の「命の授業」には、強力な助っ人が御三方参加して下さいました。お一人は日本料理店料理長、お一人は世界で活躍される著名なフレンチのシェフ、またお一人はとんさか森の授業常連さんです。皆さんの猪の〝命〟に対するリスペクトと捌かれる際の真剣な眼差しと佇まい(たたずまい)に感銘を受けました。捌かれる当の猪達の表情がどことなく嬉しそうにしていたのは気のせいじゃないはずです。
ちょくちょくとんさか森の楽校のカリキュラムに投げ入れて来る「命の授業」の報告も兼ねて校長コラムとさせて頂きました。あ~全国津々浦々、やはり校長先生の話は長いね~。